11月27日(水)の予定 他(雑感)
(1)本日のカルチャーはレクダンスです。
(2)生活人語を更新しました。難しい内容ですが、私がNPO法人を設立した動機などを
シリーズで纏めておりますので、少しでもご理解して下されば幸いです。
この「地方ほのぼの新聞」と称する独自SNSを始めた頃は、毎日、投稿しておりました
が、やがて加齢と共に週に1回、そして随時と、投稿回数が減ってしまいました。
しかし、まだ、こうして投稿できることに感謝しなければならないと思っています。HU
二人の熱血先生
小6の孫娘が読書感想文を書いているのを見て、中学時代の熱血先生のことを思い出した。
1年の担任は青白い顔に小さな目鼻、背のひょろ高い、郡徳行(別称 氷解け行く)先生。 国語の授業で開口一番、「毎週、題を決めて、作文の宿題を出す!」とのことで、「太郎の夢」。主人公の名前に困った時は、世界地図を開くとよい、で、「魔法使いボンベイと少年シドニー」等々。「私の失敗談」では、お使いに行く途中、よろけてどぶ川へ自転車もろとも頭からまっさかさまに落ち、大勢の人だかりに見下ろされた体験を書いた。 怪我もなく、真っ黒顔で、どこの誰べえか分からなかったのが幸いしたが、あろうことか、皆の前で読まされて、恥の上ぬり、さんざんな作文となった。 宿題を忘れたものは、壇上に並ばされ、先生からノートの束で一人ずつ、情け容赦なく頭をなぐられた。 私も一回だけ、体調が悪くて書けなかった時に、思いっきり頭をたたかれ、痛さとめまいでフラフラしながら席につき、「もう二度と忘れまい!?」と、自分に誓ったものである。 作文に限らずその厳しさは、全校でも折り紙付き。クラスの皆は一様にどなられ、体罰を受けたが、お寺の出身という先生には、若くても不思議な説得力があり、生徒の恨みがましい声も、保護者からの苦情も聞こえてこなかった。 「母」の中では、18位までしか生きられない、と、医者から宣告された(らしい)私を、献身的な努力と無限の愛で、命の灯をともし続けてくれた母の姿を綴った。 ひと山売った時も、「この子は、女学校も嫁入り支度もとっくに済んだよ!」との大姑の非難にもめげず… いつもは長くて4~5行の先生の赤ペンが、この時だけは、「私はこんなに泣かされた事はありません…」で始まり、延々と2頁にもわたる読後感だったのに感動! 強制的な宿題が重荷になっていた先生との距離が、ぐっと縮まった事が忘れられない。 今思えば、彼の心の奥底に秘められた母への思いが、一気に噴き出したのにちがいない。二学期早々、先生が大学に戻って勉強する由で、急に辞める事を聞き、皆ショックを受けた。 そして、秋風と共に私の心にポッカリと、大きな穴があいたことを憶えている。
もう一人は、3年時の社会の先生。 がっちりとした上背で、温和な笑みを絶やさず、見るからに頼れそうな聖職者の風貌だった。
飽きさせない授業運びも、ベテランの名にふさわしく、私たちは歴史の面白さを楽しみながら大いに学んだものである。 善悪はどうあれ、この先生の熱弁から最も影響を受けたのは、「社会主義社会」への構築思想であった。 薦められた「蟹工船」をきっかけに、小林多喜二の本をむさぼり読んだ。 当時、私は、父の事業の失敗で、住み馴れた松山市から、
両親の郷里である、足摺岬に近い、愛媛県の南端の村に転居したばかりだったので、逆境にあえぐこのプロレタリア文学に共鳴し、傾倒してしまったのかもしれない。 今、「蟹工船」がベストセラー街道を驀進中と聞く。 ワーキングプアー、日雇い派遣などの過酷な労働条件の元で働かされる若者たちに、共感を呼んでいるという社会現象も頷ける。 昭和30年代、大会社は、採用に際し、「身上書」なるものを探偵社に依頼し、思想上での(赤狩り)チェックをするのが盛んであったし、夜、大阪の文学学校に通っただけで即刻、私はクビになった。 その後、墓参のおり、校長を定年退職されていた先生に出会ったことがあり、「守口先生の色に染められて苦労しました!?」と、言いそびれて、内心苦笑… 短期間ながら、多感な時期に出会い、強烈な印象を残して去り、別れた二人の恩師たち。 若い日の想い出は、しみじみと懐かしい。。。
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