11月23日(土)の予定 他(雑感)
(1)本日のカルチャーはありません。
(2)大谷選手がMVPに輝きました。そのコメント「チーム全体のメンンバーで貰ったもの
」とのコメントが素晴らしい。私も、社会全体のことを考えてNPO活動しているが、
その考え方をなかなか普及させられない自らの無力さが悲しい。HU
二人の熱血先生
小6の孫娘が読書感想文を書いているのを見て、中学時代の熱血先生のことを思い出した。
1年の担任は青白い顔に小さな目鼻、背のひょろ高い、郡徳行(別称 氷解け行く)先生。 国語の授業で開口一番、「毎週、題を決めて、作文の宿題を出す!」とのことで、「太郎の夢」。主人公の名前に困った時は、世界地図を開くとよい、で、「魔法使いボンベイと少年シドニー」等々。「私の失敗談」では、お使いに行く途中、よろけてどぶ川へ自転車もろとも頭からまっさかさまに落ち、大勢の人だかりに見下ろされた体験を書いた。 怪我もなく、真っ黒顔で、どこの誰べえか分からなかったのが幸いしたが、あろうことか、皆の前で読まされて、恥の上ぬり、さんざんな作文となった。 宿題を忘れたものは、壇上に並ばされ、先生からノートの束で一人ずつ、情け容赦なく頭をなぐられた。 私も一回だけ、体調が悪くて書けなかった時に、思いっきり頭をたたかれ、痛さとめまいでフラフラしながら席につき、「もう二度と忘れまい!?」と、自分に誓ったものである。 作文に限らずその厳しさは、全校でも折り紙付き。クラスの皆は一様にどなられ、体罰を受けたが、お寺の出身という先生には、若くても不思議な説得力があり、生徒の恨みがましい声も、保護者からの苦情も聞こえてこなかった。 「母」の中では、18位までしか生きられない、と、医者から宣告された(らしい)私を、献身的な努力と無限の愛で、命の灯をともし続けてくれた母の姿を綴った。 ひと山売った時も、「この子は、女学校も嫁入り支度もとっくに済んだよ!」との大姑の非難にもめげず… いつもは長くて4~5行の先生の赤ペンが、この時だけは、「私はこんなに泣かされた事はありません…」で始まり、延々と2頁にもわたる読後感だったのに感動! 強制的な宿題が重荷になっていた先生との距離が、ぐっと縮まった事が忘れられない。 今思えば、彼の心の奥底に秘められた母への思いが、一気に噴き出したのにちがいない。二学期早々、先生が大学に戻って勉強する由で、急に辞める事を聞き、皆ショックを受けた。 そして、秋風と共に私の心にポッカリと、大きな穴があいたことを憶えている。
もう一人は、3年時の社会の先生。 がっちりとした上背で、温和な笑みを絶やさず、見るからに頼れそうな聖職者の風貌だった。
飽きさせない授業運びも、ベテランの名にふさわしく、私たちは歴史の面白さを楽しみながら大いに学んだものである。 善悪はどうあれ、この先生の熱弁から最も影響を受けたのは、「社会主義社会」への構築思想であった。 薦められた「蟹工船」をきっかけに、小林多喜二の本をむさぼり読んだ。 当時、私は、父の事業の失敗で、住み馴れた松山市から、
両親の郷里である、足摺岬に近い、愛媛県の南端の村に転居したばかりだったので、逆境にあえぐこのプロレタリア文学に共鳴し、傾倒してしまったのかもしれない。 今、「蟹工船」がベストセラー街道を驀進中と聞く。 ワーキングプアー、日雇い派遣などの過酷な労働条件の元で働かされる若者たちに、共感を呼んでいるという社会現象も頷ける。 昭和30年代、大会社は、採用に際し、「身上書」なるものを探偵社に依頼し、思想上での(赤狩り)チェックをするのが盛んであったし、夜、大阪の文学学校に通っただけで即刻、私はクビになった。 その後、墓参のおり、校長を定年退職されていた先生に出会ったことがあり、「守口先生の色に染められて苦労しました!?」と、言いそびれて、内心苦笑… 短期間ながら、多感な時期に出会い、強烈な印象を残して去り、別れた二人の恩師たち。 若い日の想い出は、しみじみと懐かしい。。。
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